真珠湾攻撃――収容所生活

真珠湾攻撃が始まった
――1941年12月7日

ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後

収容所生活

灼熱砂漠の長屋暮らし


img157.jpg  「もう大丈夫。これからはどこに送られても家族一緒だ」――。

 夢にまで見た妻子との1年4カ月ぶりの再会。真珠湾攻撃から2年余の1943年3月、米国アーカンソー州のジュローム収容所。福島市上野寺生まれの1世、菅野富蔵さん(88)は家族収容所で一緒に生活するためにやはりいくつかの収容所を経てやって来た妻の芳枝さん(76)=両親が福島市瀬上出身。マウイ島生まれ=と2人の小さな娘の元気な姿を見て涙がにじんだ。

 真珠湾が攻撃されてから6日後の12月13日、自宅の前に警察の車が止まった。「収容所に連行する」。冷たい声が響いた。ハワイ島で日本酒の「東郷正宗」製造会社の支配人を任されるかたわら、日本系の子供らに剣道を教えていたことで目をつけられたらしい。

 いったん島内キラウェアの軍キャンプに収容された。すぐに家族の面会日があった。芳枝さんが持ってきたおむすびを面会室で一緒に食べた。これからどこへ連れて行かれるのか。個人の力ではどうしようもないという無力感。「最後だから」と5歳の長女、8カ月の二女を抱いた。温かみが伝わってくる。その場で二女のおしめも洗ってみた。小さい子供たちと別れるのはつらい。「離れ離れになってもしっかりやっていこう」と妻を励ますのがやっとだった。

 約1週間後、オワフ島に移送され、さらに商船で米国本土に。裸にされ、身体検査も。銃剣を持った兵の監視の下、列車に揺られ、各地の収容所をたらい回しにされた。収容所では敷地内の掃除などをさせられた。

 剣道を指導していたということで「日本兵に出会えば切れるか」「何人まで切れるか」などとよく質問された。「敵ならばどんな人種でも切る」と答えたら、いすをけとばされた。

 残された芳枝さんらも翌年、米本土の収容所に送られた。夫とは別々の収容所だ。ハワイを出る時には建てて半年しか経たない家を二束三文で手放した。帰る所もなければ、夫と離れての生活。心細かった。が、先に収容されていた日系人たちは「大変だったでしょう」と慰めてくれた。心尽くしのシチューをむさぼる娘たちを見て、芳枝さんは何度も涙をぬぐった。

 そしてアリゾナ州の家族収容所での家族4人の暮らし。広大な砂漠に木造の長屋が何棟も並ぶ。ざっと1万人の日系人が収容されている。

 暑い。とにかく夏の灼熱(しゃくねつ)には閉口する。道端に落ちたソーセージがじりじり焼け、屋内のベッドもやけどしそうな暑さなのだ。そこで菅野さんは軍経営の日用雑貨店に勤め、芳枝さんは収容所食堂でウエートレスとして働いた。米国政府のあっせんでアイダホ州のポテト掘りなどもした。コメがなく、与えられる食事は毎日イモばかりという時もあった。

 ある日、町での買い物から帰ったら、監視に当たっていた米国人が「戦争に勝った」と大騒ぎしていた。日系人は「負けた」と泣いていた。終戦だった。「ハワイに帰れる」
img158.jpgブッシュ大統領のサインが入った謝罪の手紙
 戦後は大工で生計を立て、2人の娘も大学を出て小学校の教員になった。

 1990年10月、戦時抑留補償で米国政府から小切手を二万ドルずつもらった。大統領からの謝罪の手紙も同封されていた。誠意ある内容に「さすが米国だ」と思った。

 日本では戦時中、強制連行した朝鮮人への責任を認めない政府に対し、補償問題が法廷に持ち込まれたという話をすると、菅野さん夫婦はびっくりして「米国を見習って誠意を持って対応すべきだ」と口をそろえた。

 日本人としての誇りからか、未だに米国に帰化していない菅野さん。「本物の国際化は、歴史に謙虚になり、過去を反省するところから生まれる」。そんな思いで、自らの体験と重ね合わせているようだった。

【日系人の収容】

 FBIや警察があらかじめマークしていた日系人を、真珠湾攻撃直後から次々に連行した。米国国籍のない日系人が中心だった。米国本土の収容所に送られた日系人は約12万人。

 1983年、米国政府の戦時市民立ち退き収容委員会は、かつて収容した日系人などに謝罪・賠償するよう大統領と政府に勧告、88年に強制収容賠償法が成立した。当時収容された人には年齢に関係なく1人2万ドルの小切手が渡された。

 90年代から小切手の送付が始まり、ブッシュ大統領の「第2次世界大戦では日系人に深刻な不平等を強いた」などという過去の過ちへの謝罪を述べた手紙も届けられた。