真珠湾攻撃が始まった――忠誠

真珠湾攻撃が始まった
――1941年12月7日

ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後

忠誠

3、4世たちの名誉のため

img172.jpg 火煙が夜空を焦がしている。爆撃される市街地。迎え撃つ高射砲弾の光の帯が闇に飛び交う。「大勢の市民や子供が死んだのでは」。湾岸戦争を伝えるテレビの画面に、オアフ島生まれの2世・佐藤富美弥さん(74)=両親が福島市出身=は顔をそむけた。

 忘れようとしても忘れられない戦場体験が、そのバグダッド攻撃の画面に重なった。

 「日本人の血を持っている者は集合せよ」。真珠湾攻撃から6カ月後、大隊長の号令がかかった。「諸君はただいま、行き先不明の旅に出るべく直ちに用意をしろ」。徴兵でハワイ国民軍に入隊していた佐藤さんにとって、それは長い旅の始まりだった。

 1432人の日系人を乗せた軍用船「マウイ号」は静かに島を離れた。甲板の兵はみんな押し黙ったまま。ホノルルの街並みが遠ざかって行く。涙で顔がゆがんだ。数日して見上げると、金門橋があった。

 ウィスコンシン州のキャンプ・マッコイに到着し、6カ月の訓練を受けた。「米国歩兵第100大隊」。キャンプを出る時命名された日系2世部隊の名称だ。「第1次世界大戦で全滅した部隊名ではないか」。がく然とし、不吉な予感がした。

 大隊は再び行き先不明の船に揺られ、着いたところはイタリアだった。そして予想に反して、戦線に出された。至る所に死があった。戦いの合間、「こんど死ぬのはこいつか、あいつか。それとも自分か」と周囲を見回す。激戦の後は、いるはずの顔が2~3人消えている。

 「そう言えば、両親にも会わず国を出てしまった。今ごろどうしているだろう」。敵の銃火が途切れた瞬間、ハワイの家族や友人たちの顔が浮かんだ。

 「この中で、生きて帰った者が(自分の戦死を)母に伝えることにしよう」。約束する戦友たちの目が恐怖と極度の緊張で異常に輝いた。

 ある時の戦闘でドイツ兵が捕まった。見れば18歳ぐらい。顔には幼さが。なにかの行きがかりで、味方の兵がその兵士の顔を殴った。兵士の胸ポケットから1枚の写真が落ちた。母親らしい女性が写っている。同僚が踏みつけようとしたので素早く拾い、ズボンで泥を落とし、ポケットに入れてやった。兵士の顔が見る間に輝いた。

 「もう一度ハワイに戻りたいと言っていたやつがいた。結婚2日目に米本土行きになったやつもいた。戦場では弾よけの穴をより深く掘れという母の言いつけ通りにしていた者もいた。でも、みんな死んでしまった。帰りたくても生きて帰れなかった者のことを考えると、とてもつらい」

 日系部隊を支えたのは米国への忠誠だった。それ以上に銃後の日系人やこれから生まれてくる3世、4世の日系人の名誉のためだった。そのために、佐藤さんの多くの戦友が命を落とした。

 足を負傷はしたが、生きて国に帰った。戦後に除隊し、大学に進んだ。金融関係の会社で働き、日系人のためにボランティアで27年間も帰化講座を担当した。

 その生き方が認められ、地元のラジオに出演したり講演に招かれたりするようになった。話すのはいつも「若者を戦場に送ってはいけない」。だから、多国籍軍側の一方的勝利に終わったものの、湾岸戦争には胸が痛む。

【米国歩兵第100部隊】

 ハワイ出身で米国籍を持つ日系人による部隊。ヨーロッパ戦線の激戦地に送り込まれた約1200人中338人が戦死、米軍全体で最高の戦死率を出した。その後、米本土の日系人も入れた歩兵442連隊が組織され、両部隊合わせると650人の将校と兵士が戦死、約4500人が負傷した。これは米軍の平均死傷者率の3倍だった。

 戦後トルーマン米大統領は「敵に勝っただけではなく、偏見にも打ち勝った」とほめたたえた。米国での日系人の地位向上や信頼回復などに最大の貢献をした。