真珠湾攻撃が始まった――柔道

真珠湾攻撃が始まった
――1941年12月7日

ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後

柔道

しっかりハワイに根付く

img196.jpg 柔道着を着た4~5歳の子供から大人まで約20人が乱取りに汗を流す様子をじっと見つめる。「腰を落として体をひねりながら相手の腕を引く。そうそう、それでいいんだ」。時折、的確な指示を飛ばす。

 ホノルル市内にある道場「春楊館」で師範として柔道を教えている八巻文治さん(72)=両親は梁川町出身。オアフ島生まれの2世=は紅白の帯を締めている。7段。講道館屈指の高段者だ。柔道がハワイにしっかりと根付いていることに、ささやかな喜びと幸福感を抱いている。

 子供のころ、体が小さくて随分いじめられた。いつも鼻血が出るほどの大げんか。顔に犬のフンを押しつけられたことも。中学に入っても白人や日系人の同級生らとのケンカに明け暮れた。見かねた父に柔道場へ連れて行かれた。これが柔道との出合いだった。「強くなりたい」。その一心で柔道通いが始まる。13歳だった。

 「新しい道着をもらって身に着けた日のことは今でも覚えているよ」。師範が塩を道場内にまき清めてから渡してくれた。当時の稽古は週3回。最低4時間は猛稽古だ。両親の祖国の武道ということもあり、のめり込む。別の道場へも週3回出かけた。道着を絞ると汗がしたたり落ちるほど。父と一緒に砂糖会社で働いていたが、仕事時間がもったいなくて、バナナやパパイヤの木にチューブを引っかけてまで打ち込みの稽古をした。あきれた父に「このバカタレ」と怒られたのも懐かしい思い出だ。

 戦争が始まると日系人は身を慎んだ。道場にはだれも来なくなった。そればかりか、道場を閉めるところも出た。「柔道を続けたい」との思いを柔道好きの知り合いの巡査に頼んだら、「警官に柔道を教えるならば」との条件つきで警察署からOKが出た。

 灯火管制下、窓に黒い布を張りつけて、大きな男たちへの指導が始まる。いずれもフットボールなどの経験者だけに、のみ込みは早い。週3回ほど道場で大男たち相手に柔道を教える。相手からいかにして拳銃を奪うか、そんな実践的な練習もした。

 米国人にとって柔道は敵国の武道である。とはいえ、いいものはいいと認め、取り入れる進取の精神があった。「この寛大さこそ米国そのものだ」と思った。

 戦後少しずつ市民が道場に来るようになった。ただ、立ち退きを求められ、道場は4回ほど場所を変えた。いい所が見つかれば畳を担いで行く。「戦時中でさえ道場は閉めなかった。柔道の火を消してなるものか」と必死だった。

img197.jpg 今では日系人をはじめ韓国人やフィリピン人など何カ国もの人種が集う。

 「道場に来る子は今も昔も同じ。道場では神妙にしているが実はわんぱく坊主。昔のオレがそうだったから、手にとるように分かるんだ」と目を細める。「柔道を習わせてよかった。息子が礼儀正しくなった」などと親から感謝されている。子供たちから「先生」と呼ばれると面映ゆい。

 柔道を広め、柔道を通じて日本の文化や精神を外国に伝えたい。「米国籍とはいえ、日本人だと思っているから」。そして「ケンカばかりしていた私が、曲がりなりにも生きてこられたのも柔道のお陰だから」。

 現在は保険勧誘業のの傍ら、「春楊館」道場や日本語学校などで柔道を指導する毎日だ。「柔道は講道館から始まった日本のスポーツ。それだけに国際大会で日本が負けると悔しい」と話すが、「日本の柔道家を倒すほどの強い選手を育てたい」とも。

 海の向こうに、もう1つの「講道館」があった。

【柔道】

 嘉納治五郎が柔術から発展させた講道館柔道を創設、体系化した。1890年前後から嘉納自身や高弟が海外に渡り、普及に努めた。講道館認定の有段者は海外約110ヵ国で約2万2000人(1992年調べ)。日系人は半数に満たないという。各国の団体が独自に段位認定をした者や初心者も含めると、柔道のすそ野はかなり広くなる。

 1960年のローマ国際オリンピック委員会総会で柔道がオリンピックの永久種目に決定、64年の東京オリンピックから正式種目になった。これ以降、柔道が国際的に広がった。