真珠湾攻撃が始まった――2つの国

真珠湾攻撃が始まった
――1941年12月7日

ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後

2つの国

心は米国人なのだが……

img162.jpg  さわやかな潮風の中にボールを打つ硬い音が響く。ホノルルの中心部にほど近い、海べりの公園。オアフ島生まれの2世、玉応次郎さん(70)=父が玉ノ井村(大玉村)出身=と妻の由紀子さん(69)=東京出身=は、10人ばかりの日系の老人らとゲートボールに興じていた。

 私の顔を見るなり「わざわざ福島から来たんだねえ」とプレーを中断して歓迎してくれた。「さあ、何から話そうか」。玉応さんは私をベンチに誘い、そう言って身を乗り出した。

 「育ててもらった恩を返さずにハワイへ逃げるのか」。継父が怒った。父の死後、母は玉応さんら3人の子供を連れて日本に渡り、実家のある広島で再婚。玉応さんがそこでの13年間の生活に区切りをつけ、ハワイに戻ろうとした時のことだった。福島の親類も猛反対した。

 ヨーロッパでは第2次世界大戦が始まり、日中戦争が泥沼化するなど暗い時代だった。「どっちみち兵隊に取られるならばアメリカの軍隊に」。ビンタも平気な日本の軍隊に入る気は全くなかった。

 それと、もうひとつ、2世への差別がハワイにはなかった。広島の小学校では「お前に大和魂はあるのか。校舎の2階から飛び降りてみろ」などとはやしたてられた。それがとてもいやだった。

 しかし、そのハワイも戦争になると日系人への差別やいやがらせが始まった。パン職人を辞め、軍隊(陸軍情報部)に入ってからもそれは同じだった。「ジャップ。軍服はアメリカ製だが、中身は日本人だろう」。そんな言葉を何度浴びせられたことか。

 軍隊ではミネソタ州の本部で6カ月の訓練を受けた。日本陸軍の規則や日清・日露戦争などでの作戦、戦術、精神面、漢字、日本の地理などの研究だ。中国大陸での食糧強盗、日本兵が日本刀で中国人を切り殺すシーンが出てくる映画も見た。「八紘一宇」「大東亜共栄圏」。理解に苦しむ発想だった。

 やがてフィリピン中部のレイテ島へ。到着数日前に激戦があったらしい。フィリピン人が日系の兵士たちをみて「ハポン(日本人)」と目の敵にした。日本人として見られ、憤りと憎しみのこもった目を向けられるのはつらかった。

 日本軍の退却跡で作戦関係の書類を探したり、部隊が拾って来た書類を調べたりするのが任務だった。だから戦死した日本兵の日記にしばしば目を通したが、慰安婦をめぐって将校と下士官が大ゲンカしたという記述を読んだ時には「やはり慰安婦はいたのか」と衝撃を受けた。

 戦後、進駐軍の一員として再び日本の土を踏み、休職を取って広島へ駆けつけた。原爆でいとこ2人が死んでいた。うらまれた。小学時代の教師からは「お前は広島の地理に詳しいけん、お前が広島に爆弾を落としたんだろう」とまで言われた。パールハーバーや、日本軍が沖縄で行った住民虐殺、自決の強要などを思い返したが、ぐっと我慢した。

 「コーヒーでもどうですか」。ゲートボール仲間の1人が紙コップを差し出してきた。ぬくもりが胃の中に広がる。

 しばらくして「ベトナム戦争に行った青年を探しているのですが……」と尋ねてみた。玉応さんは少し間を置くようにして「ぼくの息子がそうだよ」と言った。

 「乗っていたヘイコプターが撃ち落とされたんだ。幸い生きて帰ったが、あんな戦争には行かせたくなかったよ」

 いやなものを思い出すかのように顔をしかめた。今、その息子(二男)と長男は公務員として独立、長女はラスベガスで銀行に勤めている。

 日本では米国人扱いされ、米国では未だに日本人と見られる玉応さん。心はすっかり米国人のつもりだが、日本の商社によるハワイの土地の買い占めなどがあるたびに白人の知り合いから「お前の兄弟がまたやったな」と言われ、複雑な気持ちになる。

【進駐軍】

 日本政府の行政権を管理・監督した米軍を中心とした占領軍のこと。1945年9月に米第1騎兵師団約8000人が東京に来て以降、約50万人の米軍が駐留した。46年からは英国や豪などの英連邦軍が中国・四国地方に駐留した。

 米国政府は48年予算で占領経費として5億9710万ドルを計上、費用のかかりすぎに国民から疑問の声が出たという。

 福島県には第97歩兵師団第303歩兵連隊が駐留した。