真珠湾攻撃が始まった――悠々自適

真珠湾攻撃が始まった
――1941年12月7日

ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後

悠々自適

進駐軍で東京や福島に


img152.jpg 趣味と実益を兼ねたペンキ塗りのアルバイトをしている。「健康と飲み代のための労働」は週に2~3日。手間賃は1日150ドルほどだが、両親が霊山町出身の2世の東海林正夫さん(68)は年金を受けていることもあり、130ドルと良心的な価格にしている。

 仕事の日は午前8時ごろ自宅を出て、夕方には帰宅。「まじめに仕事をしていればハワイでの生活は十分。結婚式も葬式もアロハシャツで出席出来るし」と鶴の絵が入った茶色のアロハシャツを着て、常夏の国の経済性を強調する。

 ペイントの技術は陸軍工兵隊時代に身につけた。当時、兵舎や公立学校などの壁を塗り回ったものだ。終戦後、通訳兵が足りないということで、志願してミネソタ州の陸軍情報部語学校に入学した。軍が取り寄せた東京日日新聞(毎日新聞の前身)の社説を翻訳するなどとして訓練を積み、1946年2月、進駐軍として東京・有楽町の連合軍翻訳通訳部に赴任した。
img154.jpg陸軍情報部語学校修了時の東海林さん
 まだ焼け野原が残っていた。食糧不足。町にあふれる娼婦や戦災孤児。両親の祖国の実態を見て、やり切れなかった。日本の再興に少しでも貢献しようと誓った。

 46年4月の戦後初の衆院選では板橋区などをオブザーバーとして担当、将校とともに選管に出向き、選挙の仕方を指導した。選挙に対する住民の高い関心を知って「これなら民主主義は根づくのでは」と思った。

 手紙の検閲もした。阪大の学生が東大の友人に放射能に関する論文を送ったため、将校や警察官と一緒にその阪大生を大学に訪ね、図面の提出を求めたこともある。

 進駐軍は週1回ダンスパーティーを開いた。日本人女性もやってきた。「世の中は落ち着いていないのに、どういう気持ちで来るんだろう」と不思議に思った。おなかをすかせてパーティーに来た女性にドーナツを買ってあげたこともあっる。

 霊山町で歯科医院を開業するいとこの桑島定雄さん(67)は、そんな東海林さんを「彼は3歳の時に福島に来て小、中学校とも同級生だったが、まじめで優しかったからなあ」と懐かしむ。

 進駐軍時代に霊山町を訪ねた。桑島さん宅にあった幼少時代の自分の写真を見つけて「宝物にする」と持ち帰った。今でもその写真は大切に保管してある。

 6年ほど前にも福島を訪ねたが、桑畑が住宅地に変わるなどの発展に目を見張った。

 「舞ちゃんはまだ見つからないの」「フィリピン人ダンサーの事件は、福島にとって運が悪かったね。その後はどう」と尋ねられたのには驚いた。福島の大きな事件事故はハワイでも報じられており、やはり気になるらしい。「3年前の(福島県の)知事選はみっともなかった。しっかりしてもらわんと」などと古里への注文も忘れない。

 妻の恵美子さん(63)=両親が愛媛県出身の2世=と長男正美さん(24)の3人暮らし。来年1月から3月まで、ゲートボールクラブや信心する天台宗のお寺、福島、愛媛の各県人会などの新年会が相次ぐ。「3月に入っても、おめでとうと新年会があるんだから」と言いながらも悠々自適の生活。3月にはラスベガスに夫婦で旅行する。

 「日本は経済的に成長したけれど、余裕がないというか遊び方を知らないようだね。日本の若者はハワイに来るけれど、ワイキキからほとんど動かない。ホテルなんかで食事しないで、町の食堂に入ってごらん。そうすれば私らの生活を見えてくるし、ハワイの人とも知り合えるんだから」。日本人は、国際化の第一歩すら出来ていないのが気になってしようがない。
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【GHQの改革】

 連合国総司令部(GHQ)は日本の政治や経済、社会などで強制的な改革をした。軍国主義を排除して民主化を進めるため、軍隊や特高警察の解体、治安維持法の廃止、政治犯の釈放などを実施した。また、選挙法を改正、女性への参政権を認めた。

 経済面では独占企業や財閥の解体、農地改革を指令した。教育勅語の廃止や男女共学制を学校現場に導入し、平等思想の普及を図った。

 戦争中に指導的立場にいた軍人や政治家を戦争犯罪人として極東軍事裁判にかけて追及した。