真珠湾攻撃が始まった――ベトナム戦争

真珠湾攻撃が始まった
――1941年12月7日

ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後

ベトナム戦争

招集、戦闘ヘリで出撃

img167.jpg  「おかしいぞ」と操縦士が叫ぶ。4人乗りのヘリが小刻みに揺れ出す。解放軍の攻撃を受けたらしい。操縦不能になったヘリは急降下し始めた。死ぬのか。恐怖で顔が引きつる。目を閉じる者。言葉にならない悲鳴が上がる。「助けてくれ」。ミルトン・ヒデオ・タマオさん(42)=父は連載6回目に登場した玉応次郎さん(70)=は体を硬くして墜落の衝撃を待った。

 20秒も過ぎただろうか、鈍い衝撃が体に走った。ヘリは田の真ん中にかろうじて不時着している。すぐに味方のヘリが来て救出された。助かった。体中から汗がどっと流れ出た。

 ミルトンさんは、その後ヘリに乗るたびにこの恐怖心がよみがえって腹痛を起こすなどしたため、警備兵に変えてもらった。

 短大に通っていた1969年、召集令状が届いた。当時ベトナム戦争が泥沼化していた。「おれはあのベトナムに行くのか」。戦闘用ヘリの整備などの訓練を積み、70年4月、ハワイに一時里帰りの後、ホノルル国際空港からチャーター便でベトナムへ。空港では両親が見送ってくれた。「行かせたくなかったよ」と父の玉応さん。母の由紀子さん(69)も涙があふれた。

  「皆ベトナムには行きたくなかった。でも、行けと命令されれば選択の余地はなかった」とミルトンさん。徴兵を逃れるためにしょうゆを飲んで高血圧を装ったり、女性の下着をはいてゲイのふりをしたりして兵役免除を試みた若者もいたという。親が息子を海外に出して逃がしたケースもあった。

 ベトナムでは命令を受ければ出撃する。ヘリから掃射したこともある。下からも撃って来るため、身の危険を感じながら手当たり次第に銃を撃ち続けた。

  「何かが倒れたというのがかろうじて分かるだけで、人を撃っているという感覚はなかった」

 同年末、兵役の6カ月延長を志願した。けがも負わなかったし、手当もいい。自分が残ればだれか1人は来なくて済む。命を落とすかどうかは「ギャンブル」だと思っていた。

img170.jpg それに、戦地では韓国軍部隊の真ん中に駐屯出来た。捕虜などの扱いを定めたジュネーブ条約に韓国は入っていなかったので、解放軍はどんな目に遭うか分からないと恐れて近づかなかったという。しかし、両親は延長したと聞いて何を考えているのかと驚き、ため息が出た。

 ところが、その直後に韓国軍の外に出なければならなくなった。翌年1月から始まった大作戦に参加させられた。所属部隊のヘリ21機の過半数が撃墜されるほどの激戦。3月まで続いたこの作戦の中で、初めて乗っていたヘリを撃墜され、死に直面した。

 米国に戻ったミルトンさんを待っていたのは、軍が用意した1皿のステーキだけだった。「ありがとう」の言葉も、パレードもなかった。「ベトナム帰りか」と冷ややかな目が注がれる。

  「米国はベトナムに宣戦布告しておらず、兵士はなぜ自分たちが戦わねばならないのか分からなかった。おまけに国民の支持もなく、士気は下がる一方だった」と当時の悩みを打ち明ける。

 大勢のベトナム人や米国人の戦死者を出したベトナムに今日本企業が進出して経済活動をしている。ミルトンさんは「避難民が出ても日本は受け入れない。どうしてそんな姿勢を取れるのか。ベトナムで金もうけして来たのに」と不思議がる。

 その日本企業はハワイにも進出、膨大な投資や開発を繰り広げている。「日本企業が土地を相場の4倍も出して購入するので地価が上昇し、地元の人々が家を買えなくなっている」。ミルトンさんは、親の国である日本が理解出来ない。

 日本が真珠湾攻撃したのは米国が経済封鎖をしたから、という説についても「だってその前に日本は中国を侵略していただろう。日本は間違っていた」と指摘する。日本を冷静に見ている。

 連邦政府職員として真珠湾に勤務するミルトンさんは、ダイアモンド・ヘッドやホノルル市街地が眺められる一戸建ての自宅でフィリピン人の妻エニシータさん(43)と長女キンボリー・クミコちゃん(3つ)との3人暮らし。子煩悩なよき父、よき夫だ。

 別れ際、笑い声とともに明快な言葉が返って来た。「日本人だったら徴兵もなくベトナムに行かずに済んだのにって? 考えたこともないな」。ひと呼吸置いて自信にあふれる言葉が出た。

 「アイ・アム・アメリカン」
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【日本企業の投資】

 ハワイへの直接投資累計総額は、日本からが70億ドルと飛び抜けて多く、次いでオーストラリア6億3600万ドル、香港2億9100万ドル、英国1億9300万ドルと続く。

 ハワイでゴルフ場開発をしているのは日本企業だけとも言われる。

 日本企業の土地買い占めで借家を追い出された人々の中には野外生活を余儀なくされた家族もいる。「ジャップ・ゴー・ホーム」の殴り書きも一時期各地で見られた。