真珠湾攻撃が始まった――古里愛

真珠湾攻撃が始まった
――1941年12月7日

ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後

古里愛

「移民の原点」を残したい

img200.jpg ワイキキで日本人旅行者向けに無料配布している新聞「ジャパニーズ・ビーチ・プレス」(隔週発行、3万5000部)に「HIROKOの楽がき」と題するページがある。ハワイの催しや観光案内が多い中、ちょっと硬派のコーナーだ。「ボランティアに生きる・日本の古内さん」との見出しで「福島市の古内克巳さん(70)は、発展途上国の恵まれない子供達に……」の記事が飛び込んできた。

 ハワイの新聞に福島の記事。執筆者は秦氾子(ひろこ)さん(58)。日本語新聞「イースト・ウエスト・ジャーナル」社(ハワイ)でレイアウトや広告のカットなどを担当する傍らプレス紙に寄稿する記者でもある。

 東京都荒川区生まれ。戦争で母の実家のある福島市に疎開した。福島女子高校を卒業後、福島民友新聞社広告部図案課に勤務。1968年、オアフ島の砂糖会社にいた19歳年上のいとこ慶男さんと結婚。ハワイ生活は23年になる。

 地域の身近な話やエッセーなどを日本語新聞に投書していたのがジャーナル社の目にとまり、これがきっかけで入社。知人から誘われて、84年にはプレス紙のコラム欄をもらった。

 何を書くか。秦さんは目を地元の町エワに向けた。町をイラストマップで紹介する。日用雑貨店の元店主だった日系のおばあさんの苦労を聞く。砂糖会社の歴史。往復1.5マイルを毎週日曜だけ走る列車の話。豆腐屋だったおばあさんを訪ねる。盆踊りに参加する。日本とハワイに関係のあるものを取材対象にした。

 「ワイキキだけがハワイではない。特にエワは福島出身者が多かったこともあり、その苦労や歴史、人の声を何らかの形で残したい」と熱を込める。土地への愛着が、秦さんを取材に駆り立てる原動力だ。

 エワでの日本企業のゴルフ場開発も記事にした。農薬問題を問いかけ、パイナップルやサトウキビの衰退に触れつつ「時代の流れだと簡単に割り切っていいものだろうか」と訴える。「店が出来たり、交通の便がよくなるのはいいんだけど、でもねぇ……」と言いよどんだ。

 読者の中には記事を読んで実際にエワを訪ねる人も。「古里愛が強すぎると言われるけど、エワのことをもっと知ってもらいたいの」。まっすぐな目をして言い切った。

 福島の記事も書く。福島市の「白鳥の里親」になっていることから、「福島冬の名物詩」と題して紹介した。福島のママさん合唱団がハワイに来て日本の歌を披露した際、会場に駆けつけ、「うれしい古里のにおいがいっぱい」と書いた。そんな秦さん宅には赤ベコやこけしが並ぶ。「福島に行くたびに買うの」とうれしそうに話した。

img201.jpg 秦さんはエワの町並みを保存しようという「エワ友の会」(89年発足・会員1100人)会員としても運動を続けている。家の改築に際しては以前同様に立てるなどして原風景を変えないようにする。「ここは移民の原点だから」。福島やエワへの強い古里愛は具体的な行動となって生きている。

 取材は仕事の休みを利用する。自費。他の島に足を延ばしたりすると持ち出しになる。「夫の理解があるお陰」と横に座る慶男さんを見やった。

 新聞に紹介された冒頭の古内さんは、妻と一緒に秦さん宅で1カ月間滞在させてもらったことがある。「秦さんは気さくで、どんな人ともすぐ親しくなる。テレビやラジオを見たり聞いたりし、料理も作り、その合間に原稿用紙に向かっていた」

 エネルギッシュ女性記者の次の取材は、エワ基督(キリスト)教会の歴史の掘り起こしと決めている。「だれかが残さないとね」。気負わない、それでいて自分がやらなければとの決意のこもった声だった。

【エワ】

 ホノルル市内から車で西に約1時間のところにある。サトウキビ畑の中にある住宅街には、砂糖会社の従業員や退職者が約700軒の社宅に住む。

 かつては日本人の「サムライ・キャンプ」や朝鮮人の「コリアン・キャンプ」など人種別に8つのキャンプがあったという移民の町だ。

 砂糖工場は昨年、100年の歴史に幕を閉じたが、「第2のホノルルにしよう」という動きがあり、ゴルフ場やリゾートホテルの建設、開発が進んでいる。