真珠湾攻撃が始まった――管理人から

真珠湾攻撃が始まった
――1941年12月7日

ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後

管理人から

取材の裏話

自己紹介と取材のきっかけ

 こんにちは。西野です。福島県で暮らしたことがある社会人です。

 真珠湾攻撃50周年が近づいていると知り、福島県とハワイの関係を調べてみたところ、東日本で移民が最も多かったことが分かりました。ハワイにも大勢の福島人が移民として渡っていたのです。突然の真珠湾攻撃で日米戦争に巻き込まれた人たちは人生が大きく揺れ動きます。真珠湾攻撃で始まる太平洋戦争に翻弄され、それでもたくましく生き抜いてきた人たちの歩みを記録し、紹介したいと思いました。

 こうして10日ほどハワイを訪ね、不慣れな土地を朝から夕方までレンタカーで走り回って相手を訪ね、じっくり話をうかがいました。

車の運転

 ハワイで最も神経を使ったのは車の運転でした。

 福島県で国際運転免許証を取得し、日本にある代理店を通してレンタカーを予約し、ホノルル空港に着きました。日本時間の午前5時ごろホノルル空港に着きますから、脳みそは半分眠っています。

 ホノルル空港でレンタカーを借りるまではすんなりいきました。カギを渡され「はいどうぞ」と言われてようやく気づいたことがあります。「道が分からない!」「眠くてたまらないのに、私が運転しなければならないのか」「運転の下手な私がよりによって地理不案内の外国で運転するのか」ということです。もっと早く気づけよと突っ込みを入れたくなりますが、現地に着くまでは取材の準備になどに追われて、こういうことをほとんど考えていませんでした。考えていても名案が出てきたわけではないので、これでよかったのかなと思います。

 車に乗ってエンジンをかけるとシートベルトが自動的に動いて固定してくれました。進んでいるなぁと感心したものです。

 空港からホノルル市街地に向けて走ります。日本と違って車は右側通行です。右折や左折をする時はヒヤヒヤものです。交通標識を見ても意味が分かりませんから、そういうところは速度を落としてゆっくりゆっくり走ります。

 道に迷ったりしましたが、あとになってその近くに取材相手が住んでいることが分かったりして、「人生に無駄なことはないなぁ」と思ったものです。
今振り返ると、土地勘の全くないハワイで、住宅地図もない状態で、取材の待ち合わせ場所や取材相手の自宅にピンポイントでよくぞたどり着いたものだとわれながら感心します。

治安

 ハワイの治安はいいと聞いていましたが、1度だけ危ない目に遭いました。ホノルル市内を夜歩いていた時のことです。宿泊先のYMCAセントラルからマクドナルドに向かって歩道を歩いていた私の左胸が鈍い衝撃を受けました。私の右側を走る車からすれ違いざまにリンゴの食べカスを投げつけられたのでした。顔に当たっていたらメガネが割れて、さっそく翌日の運転ができなくなるところでしたので、まずはホッとしました。

 当時は真珠湾攻撃50年の節目でしたから、もしかしたら日本人顔の私が嫌がらせを受けたのかもしれませんし、たまたまサルみたいな顔の東洋人が歩いていたからエサをやろうと思っただけかもしれません。ただ、日本でこのような経験をしたことがありませんし、車の中から通行人に向けて物を投げるという話も聞いたことがありません。そういう意味で、ハワイは外国なのでした。

英語

 日系人の取材はほとんど日本語でできました。ただ、全く日本語ができないミルトンさんの取材では、同席してくださったお父さんの玉応さんの通訳に助けられました。

 食事をする場合はたいてい日本語ができるスタッフがいます。しかし、絶対にそうだということではありません。ハワイはアメリカなのです。どこでも日本語が通じると思わないほうが無難です。

食事

 たいていの場合夕方には宿に戻りました。食事は隣のアラモアナ・ショッピング・センターのフードコートで食べることが多かったです。

 私はどんな食べ物でも喜々として食べますが、連日の洋食にはさすがに閉口してきます。でもこのフードコートには中華料理や日本のそばなどの店もあったので、洋食に飽きてきた私の胃が大喜びしていました。

感謝

 取材に応じてくださったすべてのみなさまに。ハワイ在住の福島人をご紹介くださるなど幅広くご協力くださったハワイの福島県人会会長・佐藤進さんに。取材の端緒を教えてくれた福島県国際交流室に。企画段階から原稿執筆まで背中を押してくれた鬼山デスクに。お金の工面をしてくれた石川支局長に。原稿執筆に全時間をかける私を支えてくれた職場の仲間に。